「鬼ケ城の悲劇」(2022年10月12日号)

  福岡県田川郡香春(かわら)町の香春町歴史資料館に行ってきた。ひと通りみた後、その近くに図書室があったので、郷土史について資料がないかな、と物色。目的は、戦国時代に香春の一の岳中腹でのことだろうといわれている、鬼ケ城の落城悲劇の話について、知りたかったから。

  聞くところによると、大分の大友軍が攻めてきて、原田 義種という香春の武将が鬼ケ城(おにがじょう)に立て籠った。難攻不落の城だったそうな。攻めあぐねた大友軍は、秘中の秘であった鬼ケ城の水の在りか(水源)を村人から知ろうとしたらしい。

  結局、水を断たれた原田勢は陥落したそうな。ここまでは知っていたが、詳細を知りたかった。図書室でみた資料は、歴史小説風に書かれていたので、史実かどうかはわからないが、こんな話だったような。

  大友勢の軍師が、旅の薬売りに扮して村人の家に泊めてもらい、そこの娘と外出。喉が渇いたといって水を所望。困った娘が、秘密の水源から水を汲んでくることになった。大友軍側は、後をつけて場所を特定・・・・・・との話。また行って確かめて、近々ちゃんと出典を示します。

  いずれにしても、その情報を漏らした村人は、さぞや後悔し村人からも白い目でみられて辛い思いをしたことだろう。

  うむ。ここは一句。

鬼ケ城水を手向けむ月煌煌

補足は過去ログに記載

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「It's highly probable!」(2022年05月01日号)

  以前紹介した元産業能率大学教授の安本 美典(やすもと びてん)氏の著書『データサイエンスが解く邪馬台国―北部九州説はゆるがない―』朝日新書(2021年)を読んだ。ものすごく学術的で、少し素人には難しい箇所もありつつ、大意としては理解しやすくてとても勉強になった。



  そして、マスコミの論調などがこうした学術的な成果に遅れていることがわかった。いまでも「邪馬台国は機内にあったとの説が有力」などの説明をテレビや新聞でみるように思うが、最近の学会の各論調をよく調べると、「北部九州にあったとの説が有力」など、これまでと違った報道になってくるのではないだろうか。

  もちろん、古代の歴史のことなので、再現して証明するなどはできない。100% 絶対という意味で邪馬台国が畿内になかったとの証明はできない。だから、邪馬台国が畿内にあったというのは、その意味では possible だ。

  だけど、It's possible, but not probable。反対に、邪馬台国が北部九州にあったとの説は、highly probable、つまり非常に確率が高いのだ。

  たとえば、あるサイコロを6回ころがして、1の目が2回出たからといって「このサイコロは1の目が出やすいようにできている不正なものだ」と主張はできない。だけど、600回ころがして、1の目が200回出たらだれでもサイコロの不正を確信するだろう。どちらも頻度(確率)は三分の一だけど、統計学的に大きな違いがある。後者の結果であれば、サイコロが不正である確率(probability)は極めて高い。

  邪馬台国がどこにあったのかを考えるうえで、当時の出土品の数を畿内と北部九州で比較して、統計学的なフィルターをかけたのが、安本氏の説明なのだ。少し細かい話になるが、以下、安本(2021)の内容を引用・説明します(安本氏の説明の引用・紹介部分は、同書の頁を記載しているので、それ以外は私・前田 淳の補足説明)。

  『魏志倭人伝』では、魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡100枚を与えた、と記されている(この銅鏡を畿内でたくさん出土する「三角縁神獣鏡」であると勝手に解釈して、だから邪馬台国は畿内にあったのだ、との主張に対する安本氏の批判については、別の機会に説明する)。

  おなじく『魏志倭人伝』では、倭人は鉄鏃(てつぞく;鉄のやじり)を用いており、絹と勾玉の生産ないし利用についても記されている。それらが畿内と北部九州で邪馬台国時代の地層から出土した統計を安本(2021)は紹介しておられる。

  たとえば、鏡の出土数は福岡県30面・奈良県3面、鉄鏃の出土数は福岡県398個・奈良県4個(安本 美典、2021、113頁)。

  鏡の出土数の比率は、30÷3=10(以下、$λ_1$と記載する)、鉄鏃の出土数の比率は398÷4=99.5($λ_2$と記載する)。鏡の出土数から計算される邪馬台国・福岡県説の確率は、以下のとおりとなる(同上書、113頁の表7より引用)。

\[ \frac{λ_1λ_2}{1+λ_1λ_2}=0.999 \]

  これは、ベイズの公式という統計学による計算法だ。つまり、99.9% の確率で、邪馬台国は福岡県にあったのだ。奈良県にあった確率は、0.01%。

  同様に、安本氏は絹、勾玉も含めた分析によって、邪馬台国が福岡県にあった確率は99.8%、佐賀県にあった確率は0.2%、奈良県にあった確率は0.0% と示している(同上書、117頁)。

  邪馬台国・畿内説でよく耳にする話は、奈良県の纏向遺跡の規模がとても大きいということ。しかし、「単に大きな建物のあとならば、神奈川県の弥生時代の遺跡から、奈良県のものよりも、ずっと大きな建物あとが出土している」(同上書、125頁)し、そもそも建物や墓の大きさをもって、邪馬台国の所在地の根拠にするという発想自体が、私(前田 淳)としても根拠が薄い気がする。

  たとえば『魏志倭人伝』には、「卑弥呼の居処、宮室、楼観(高い物見台)、城柵、厳(おごそか)にもうけ、常に人がいて、兵(武器)を持って守っている」とあるそうだが、奈良県の建物からそういうものが今のところ出土していないらしい(同上書、125頁)し、鏃など鉄製の武器も出土していない。

  「これこれの出土品が九州だけではなく、畿内からも出土している例がある」「畿内には日本の広範囲な地域からの製作物や植物などが出土しているので、全国に支配が及んでいた証拠だ」などということを邪馬台国・畿内説の根拠にする人もいるかもしれない。

  まず、そうした話を邪馬台国・畿内説の根拠にするのであれば、そもそも時代考証として邪馬台国の時代とそれらの話は合致するのだろうか。また、たとえ時代がある程度一致したと仮定しても、それら個別の少数の事例が、邪馬台国・畿内説の根拠になるとは、私・前田には思えない。

  たとえば、ドイツから日本にきた旅行者3人のうち、2人が「納豆はとてもおいしい」と感想を述べたからといって、それをもって「ドイツ人は納豆が好きな国民なのだ」という根拠にできるとは、誰しも思わないだろう。個別の事例を一般論にスレートに結びつけるのは、非科学的だ。

  ドイツ人3000人に納豆の試食会をやって、2000人が納豆がおいしいといえば、話は違ってくる。後者は統計学的に有意で科学的な確かめ方だが、旅行者三人の感想事例からの「ドイツ人は・・・・・・」などという一般論は、単なる思い込みだ。

  安本氏の著書で示されている論証は、とても科学的で納得がいくものである。素人なので、安本氏の論説にたいして、邪馬台国・畿内説の人たちがどのように反論しているのか(またはしていないのか)は、まだわからない。正面から(つまり内在的に)安本(2021)に反論できる人はいないのではと予想しているが、機会があれば調べたい。

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「板付遺跡」(2022年03月28日号)

  福岡市に板付(いたづけ)遺跡というところがある。わりと福岡市のど真ん中といった場所。先日いってみたところ、こじんまりしているものの、なかなか興味深いところだった。水田稲作を行っていた環濠集落の遺跡なのだ。

  この遺跡の調査で「日本で最初に稲作を始めた頃のようすがわかってきました」(下のリンクのチラシから引用)と説明されている。この板付遺跡こそが、日本最古の稲作開始の地域とは断定されていないようだが、今のところ最古のものの一つといった理解が可能かも。

  「板付遺跡弥生館」というのが併設されていて、いろいろと詳しいことが載っているので、資料を添付します。

板付遺跡弥生館のチラシはここをクリック

板付遺跡弥生館の図録はここをクリック

  館内はこじんまりしていて、出土品は観覧しやすく展示されている。写真は撮らなかったけど、当時の女性の服が懸けられていて、素朴かつ色鮮やかでかわいらしいもの、なんだか縦糸が少なめでシースルーっぽいエロかわいい感じのものなど、いくつかあった。

  だけど、靴下らしきものはなかったような。真冬はどうしていたのだろうか。石の鏃(やじり)もあった。周辺地域との戦争・紛争などあったのだろう。

  学芸員らしき人がいたので、たまたま話しかけることができた。質問魔の私はすぐにいろいろ聞きたくなる。

「ここの遺跡はいつごろのものですか?」
「紀元前5世紀頃だと思われます」。

「この地域は、『魏志倭人伝』でいうところの奴国(なこく)に相当するのですか?」
「・・・・・・そうです。奴国は今の福岡市、春日市、・・・・・・などの地域で、西の方の早良区(私の聞き間違いで、西区だったかも)あたりはまた別のクニだったようです」
※『魏志倭人伝』で書かれている倭国は紀元3世紀の話なので、板付遺跡の時期とは何百年も違っているので、私の質問はとても強引でした。

「縄文時代には水田稲作はなくても、畑作は行われていたとの説明を聞いたことがありますけど、ここの遺跡ではその形跡はありますか?」
「それが見つかっていないんです。この遺跡の土地は、もともとお寺があったところなので、土地がならされてしまって見つからなくなったのかもしれません」

「人口は何人ぐらいだったのですか?」
「100人ぐらいかなーといわれています。それより多くなってくると、この遺跡の外部にまで住んでる地域が広がっていって、奴国(なこく)に統合されていったようです」

「飲み水とか稲作用の水は川から引いていたと思われますが、いわゆる下水というか、トイレした後に流すような跡とかあったのですか?」
「それがなぜか見つかっていないんですよー。どうしていたんでしょうね。あまり気にせずに生活していたのかも」
「つまり、どこか外で皆さん用を足していたということでしょうか」
「んー、どうだったんでしょう」
※チラシによると、排水路はあったようなので、いわゆるトイレが見つかっていない、とのご説明だと理解しました。

  ちなみに、トイレの問題はとても大切。藤尾 慎一郎氏の『弥生時代の歴史』(講談社現代新書、2015年)では、愛知県清須市の朝日遺跡について次のように説明されている。「壕の中からは、糞が化石化した糞石(ふんせき)も大量にみつかった。弥生人が壕をトイレとして使っていた証拠だが、この糞石こそ、弥生人のトイレ事情や食生活、ゴミ処理などの環境問題について知ることができる宝物なのである」(144-145頁)。また、水路の跡の糞石から回虫・鞭虫の卵がみつかっているそうだ(同書、144頁)。

  詳しく教えていただいてありがとうございました。とても勉強になりました。なお、口頭でのやりとりなので、私の聞きとりミスや理解のミスで、実際のご主旨と違う記述になっていたら、お詫び申し上げます。この後もいろいろ質問あったけど、他の客もいて話はここまで。今度行ったときには、次のようなことを知りたい。

●藤尾氏の同書では、AMS 炭素14年代測定法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃とのことだけど、板付遺跡が紀元前5世紀頃とご説明いただいたいうことは、この遺跡は最古のものとは現在みなされていないのか、それとも、弥生時代の始まりが紀元前10世紀頃との藤尾氏らの見解は、まだ確定的ではないのか。藤尾氏は「水田稲作の開始をもって弥生時代が始まると定義している」(同書、52頁)。また、「もっとも古い水田をみてみよう。福岡市板付遺跡や野多目(のため)遺跡で見つかっている水田は・・・・・・」(同書、49頁)と書いているので、この年代のズレはどう理解したらいいのだろう。

●同じく藤尾氏の本(同書、146頁)によると、愛知県清須市の朝日遺跡からは、肺結核による脊椎カリエスの病歴がうかがわれる人骨が出土しているとのことだが、この板付遺跡からもそうした骨は出ているのか?

●同じく藤尾氏の本(同書、146頁)によると、朝日遺跡の人骨の鑑定によって、男性の推定死亡年齢が30歳代、女性が20歳代とのことだけど、この板付遺跡の人たちの死亡年齢は何歳代ぐらいなのか。また、女性が男性より死亡年齢が低いのは、藤尾氏の説明によると出産に伴うものかもしれない、とのことだがやはりそうなのか。

●靴下を当時の人たちは履いていなかったのか?

●トイレがみつかっていなくても、肥(こえ)は作られていた形跡はあるのか? 人間の排泄物を発酵させて肥料を作るのは、農業にとって必須だったように感じるが、当時それは行われていたのか?

  「板付遺跡弥生館」を出て3分ほど歩き、道路を渡ると環濠集落の跡になっている。10数件の竪穴式住居があり、周りを濠(ほり)が取り巻いている。つまり、防衛のための環濠。※水がとおっていないではなく、水がとおっていたの字がチラシなどに使われているので、おそらく水がとおっていたのでしょうか。

  竪穴式住居の中はとても狭そう。この数の住居で100人ぐらいの人口ということは、一世帯(もし家族単位で住んでいたらの話)あたり7人前後の暮らしだったのだろうか。人口増加率や合計特殊出生率(一人の女性が生涯で産む子供の平均数)はどのくらい? そして、蚊への対策はどうしていたのだろう。除虫菊でも焚(た)いていたのか。

  いろいろと追加の疑問も湧いてきた。とても楽しくて素晴らしい遺跡でした。また行ってみたい。そしていろいろ質問したい。

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「データサイエンスによる考古学」(2022年03月27日号)

  1954年のアメリカ映画『十二人の怒れる男』(12 ANGRY MEN)の中に、たしかこんなセリフがある。

"It's possible, but not probable.” 私なりに意訳すると、「その可能性はゼロではないが、確率は低い」。

  父親殺しの容疑で起訴された少年に対する陪審員裁判で、株式仲買人の陪審員が、無罪を主張する別の陪審員(主人公)に対していった言葉だ。possible と probable のニュアンスの違いがよく表れていて、興味深いと思った。

  人が人を裁く裁判では、有罪とするためにはそれなりの根拠・証拠・合理性が必要だけど、やはり最後の最後は、確率的な判断ということはあるような気がする。この点、法律について素人である自分個人の印象だけど、どうなのだろう。

  一般的な話だが、確率で何かを立証するというのは、とても科学的で論理的。たとえば、DNA 鑑定によって二人の人物が親子である確率は何パーセント、といった説明をテレビなどでよくみる。裁判に限らずあらゆる分野で、統計学的な手法による論証が行われている。

  別の例は、選挙のときの当確(当選確実)速報。これも統計学がベースになっている。たとえば、ある選挙で1000票まで開票が進んでいて、その段階で候補者 A 氏の得票率が 0.6 (つまり60%)であれば、すべて開票したときの A 氏の得票率 R は 95% の確率で次の範囲に入る。

\[ 0.6-1.96\sqrt{0.6(1-0.6)/1000}≦R≦0.6+1.96\sqrt{0.6(1-0.6)/1000} \] この例では、R は、0.57 から 0.63 の範囲に 95% の確率で入る。

つまり、途中までの開票による A 氏の得票率を r 、開票数を n とすると、

\[ r-1.96\sqrt{r(1-r)/n}≦R≦r+1.96\sqrt{r(1-r)/n} \]   もし 99% の確率で知りたければ、上の式の 1.96 を 2.58 にして計算すればよい。※実際の当確速報は、こうした考え方をベースにしつつも、出口調査(投票所から出てきた人に対してアンケートを取って、誰に投票したかを尋ねるもの)のデータなども加味して作成されているらしい。

  考古学でも、出土品などのデータから、統計学的な手法で何かを論証する研究がある。前回の Monthly の後半に紹介した安本 美典氏の本も、そうした手法で邪馬台国が福岡県にあった確率が 99% を超えていることを証明しておられる。いずれ Monthly で詳しく紹介しましょう。

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「稲作開始は500年も早かった!!」(2022年01月11日号)(各写真はクリックで拡大します。)

  年明けとなりました。今年こそは新型コロナウイルスのパンデミックが収束(終息)することを祈ってます。

  昨年末に読んでおもしろかったのが、藤尾 慎一郎著の『弥生時代の歴史』(講談社現代新書)、2015年。著者は、国立歴史民俗博物館副館長で総合研究大学院大学に勤務する研究者。



  炭素14年代測定法(放射性炭素の測定による年代推定)によって詳細に調べたところ、弥生時代の開始はかつていわれていたように、紀元前5世紀ではなくて、紀元前10世紀にさかのぼる可能性がある、とのこと。この説は、国立歴史民俗博物館チームによって、2003年に公表されたらしい(同書、4-5頁)。

  土器に付いているススなどの炭化物を測定して得た年代推定が、炭素年代測定の科学技術の進歩によって、以前と大きく異なることになったのだ(同書、4-12頁)。

  この本はその視角から弥生時代の通史を整理しなおして説明したもの。他の様々な出土品や集落の様子なども織り込んで、総合的かつ体系的に、詳しく解説されている。

  専門外なので、何も異論などなく「なるほどなー。いろんな出土品からこんな風に古代史が体系的に説明されているんだー」と感心して読ませてもらったのだ。

  最後の部分になると、やはり邪馬台国について言及されているが、邪馬台国がどこにあったのかについては、明確には説明されていない。慎重なスタンスが感じられた。

  ただし、奈良県桜井市の箸墓古墳について、こんな叙述があった。「箸墓古墳の被葬者が卑弥呼だとすると、卑弥呼が死亡したのは248年なので、300メートル近い規模から考えて、箸墓の築造は卑弥呼存命中に始まったことは間違いない」(同書、228頁)。

  たしかに、箸墓古墳の被葬者は卑弥呼だ、との説が世の中にあるのは有名だが、「卑弥呼だとすると」と仮定したうえで話を進める理由がよく理解できなかった。この引用箇所の前後の論理展開のために必要な説明として書かれているとは読み取れなかった。反対に、被葬者が卑弥呼ではないと仮定するとどういう考えになるのかも、両論併記すべきだったのではないだろうか。

  最近読み始めたのが、下の本。著者の安本 美典(やすもと びてん)氏は、元産業能率大教授で、データサイエンスの手法による研究成果を紹介したもの。



  統計学的な手法によって、卑弥呼の都は99.9%の確率で福岡県にあったということを論証している。まだ読みかけだが、氏のこの説に真正面から反論できる人は、世の中に存在しないのではと感じている。

  つまり、邪馬台国は福岡県ないし九州にあったということが、氏の論証によってほぼ確定しているのでは、などと個人的に思っているが、私の我田引水だろうか。

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「ネギガナイト」(2021年10月12日号)(各写真はクリックで拡大します。)

  2月1日号で、カモネギの二点を紹介した。そのうち、下のいきがってるやつは、どうやってゲットしたか記憶がはっきりしない。ある日いきなり外出先で現れて、モンスターボールでゲットしたように思う。

  カモネギは普通では進化できないけど、あのカモネギ君は、相棒にしておいて、エクセラントスローでのポケモンゲットを10回やると、進化できるようになるとのことだった。

  その結果が、下の写真。素晴らしい。目が澄んでいる。ナイト(騎士)になったのだ。使命感に燃え、自己の身命を捧げた瞳。ナギガナイト君は、とても強い。スペシャルアタックがすぐに出せるのだ。



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「謎の九州王権」(2021年8月号21日号)(各写真はクリックで拡大します。)

  新型コロナウイルスの影響で、外出して観光することができないので、読書の話題。今回読んだのは、岩井 敏明(2021)『謎の九州王権』祥伝社新書。



  わくわくするほど興味深い内容だった。しかも、魏志倭人伝の読み下しの全文が巻末に記載されている。正直、魏志倭人伝の全文をみたのは初めて。

  これまでは、魏志倭人伝の一部がほんの少し紹介されている文章ばかり遭遇してきたので、いつのまにか魏志倭人伝そのものも、とても短いものだろうなどと固定観念を持ってしまっていた。

  そして、魏志倭人伝の著者としても、あの古代に実際に日本に足を運んで確かめるということはできなかっただろうから、言い伝えや噂をちょっと書き記した程度のもので、内容的には正確ではないのだろう、などというイメージも持っていた。

  今回、この本を読んで、そうした先入観が消えた。魏志倭人伝の読み下し文は、この新書版で7頁余の分量。著者の陳寿は確かに直接日本には来ていなかったかもしれないが、内容はとても具体的かつ詳細で、内容についての信ぴょう性は以前よりも高まった。

  同時に、読後は邪馬台国についてのイメージもかなり変わった。これまでのイメージでは、稲作を中心とした村が形成されていて、そこでの生産物を村単位で分配・消費しているこぢんまりした社会であり、市場とか交易とか外交とかは活発ではないとの印象。

  ところが、こんなことが書かれている。「尊卑は各々差序あり、相臣服するに足る。祖賦を収む、邸閣あり、国々市(いち)あり。有無(文物)を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。・・・・・・王、使いを遣(つかわ)して京都(けいと)・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、及び郡の倭国に使いするや、皆津(港湾)に臨みて捜露(捜索)し、文書・賜遺(しい)のものを伝送して女王に詣(いた)らすに、差錯(ささく)するを得ず」(同上書、210頁)。

  最後の「差錯」とは、誤り、間違いのことらしい。つまり、正確に、的確に行われていたということだろうか。身分の差があり、市場と交換があり、なんと、文書のやりとりを日本列島以外の外国と行っていた、と書いてある。

  しかし、当時の遺跡からは、紙や文字の考古学的な発見はなされていないのでは。とすると、邪馬台国で外交に携わっていたような一部の人々(渡来人かも)が、中国や韓国と文書のやりとりをしていた、ということなのだろうか。

  邪馬台国の大きさについては、七万余戸と書いてあるように読める(同上書、207頁)。一世帯あたり5人家族と仮定すると35万人程度の人口か。使用人や小作人(そのような身分・役割の人がもしあれば)や生口(せいこう;一番低い身分の人々、または、奴隷などのことらしい)も含めると、もっと人口は多かったのかも。

  また、この魏志倭人伝の読み下し文に目を通して、ますます邪馬台国は九州にあったとの思いが強くなった。詳細は次号に続く。

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梅の季節(2021年3月号)(各写真はクリックで拡大します。)

  庭の梅が咲いた。秋ぐらいから、肥料を少しずつやっていたからか、今年は元気に開花した。



  日本の花といえば桜が代表みたいだけど、梅も素晴らしい。出身高校である福岡県立筑紫高校の校歌に「百花(ひゃっか)に魁(さきが)け咲く梅に  文化の跡をたずねつつ」という歌詞があった。高校時代には、この歌詞に疑問を持っていた。「元日頃には山茶花(さざんか)とかすでに咲いているけど、なんで梅が百花に魁けて咲く花って言えるのかな?」と。その後、納得したのだ。旧暦の正月から考えて、最初に開花するのは、やはり梅なのだ。



  桜もいいけど、梅もいい。同じように、相撲もいいけど柔道もいい。オリンピックで一番楽しみにしているのが柔道。相撲に並んで柔道も「国技」と考えてもいいのではと個人的には思っている。もちろん、空手も、柔術も、合気道も、剣道も素晴らしいけど。
  いよいよ福岡県の緊急事態宣言が解除のようです。春一番も吹いて、次は啓蟄(けいちつ)。虫も人も動き出したくなる季節。とはいえ、引き続き感染拡大防止のために、節度ある行動をお互いに心がけましょう。

ポリバケツ逃げまどいたる春一番(柿沼盟子)

  町内清掃の日は、春一番が吹いた翌日だった。相変わらず風が強くて、ふと見ると、白いレジ袋が上空高く舞い上がっていた。

青空にレジ袋舞う春一番(Maejun)

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鍋の季節(2021年2月号)(各写真はクリックで拡大します。)

  先月の下旬ぐらいから、少し鼻がむずかゆくなっていた。「そろそろスギ花粉が飛んでるのかなー」などと思っていたら、案の定、だんだんと喉は痛くなるしクシャミは出るし、いよいよですね。

朝一番くしゃみ三発二月かな(Maejun)

  そんな季節には、鍋料理がいい。部屋の加湿になるし、喉や鼻の粘膜も潤う。行きつけのスーパーで、鍋用の野菜セットはないかなと探したけれど、見つからず。残念。

  理想の商品のイメージは、すでに洗って切り分けてある野菜の盛り合わせ。太ネギ(3センチくらい)×2個、ニンジンの輪切り×2個、シイタケ2個、春菊×2葉、他。※豆腐も入っていていいかも。ただし、豆腐は崩れやすいので、もし入れるなら木綿豆腐がいいかな。

  なんでこんな便利な商品が売られていないのだろう。他のスーパーにはあるかも。仕方ないので、バラ売りの野菜を買うことにしたけど、各種揃えていたら持て余す。食べ物を粗末にするのは大嫌いなのだ。

  そこで、太ネギを一本だけ買った。でも、一日で食べるには多すぎるので、結局、三日間ネギ入りの鍋を食べつづけた。今度、そのスーパーに「野菜盛り」商品の提案を出してみようかな、などと思案中。

  「鴨葱」(かもねぎ)という言葉がある。鴨がネギを背負ってやってくるという、おあつらえ向きの状況をたとえたコミカルな表現。たしかに鴨鍋にはネギが合うけど、他の野菜もセットで欲しいものだ。

  わがポケモンのカモネギの写真を二点。



  肩にネギを背負ってる鴨は、ちょいと調子に乗ってる感じで楽しい。



鴨なれば野菜一盛背負って来い(かもなれば やさいひともり しょってこい)(Maejun)

  出だしは、「鴨なれど」がいいカモと思案中。

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新年のご挨拶(2021年1月号)(各写真はクリックで拡大します。)

  皆さま、それぞれに新年をお迎えのことと思います。昨年は突然の新型コロナウイルス禍で世界中が大混乱となりましたが、今年はそれが終息することを願っています。良い意味で、去年とはつながらない一年となりますように。

貫かぬ棒であれかし去年今年(Maejun)
※高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」をもじりました。

  以下の写真は、去年の9月に訪れた芦屋の「芦屋釜の里」の遠景、中庭の写真、中庭に咲いていた花の写真。







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芦屋釜の里(2020年9月)(各写真はクリックで拡大します。)

  ずっと観光やフィールド調査を自粛していました。9月になって再び芦屋に行ってきた。前号(3月)で説明したように、芦屋はかつて全国でも有数の茶釜の生産地。なぜそうなったのだろう。そして、なぜそれが持続しなかったのだろう。そんなことを考えつつ、「芦屋釜の里」に行ってきた。入り口はこんな感じ。



  なぜ全国的に有名な茶釜の産地になったのか、実は今回はよくわからなかった。そのへんの説明がどこかにないのだろうか。現時点での個人的な仮説としては、①当時の芦屋は、九州では有数の殷賑(都市に活気があり、賑やかなこと)を誇った場所で、商業とそれに伴う製造業が盛んだった、②茶釜を作る匠の高度な技術が古来より継承されていて、ある意味でブランドとして確立していた、③茶釜を作るための原材料の産地が近くて、作るうえで優位性があった、などではないかな。

  福岡市や北九州市や宗像市のような、近隣の都市に比べると、いまは静かなベッドタウンのようなイメージだが、海上交通での往来や商業が盛んな昔には、交通の要衝として宿泊施設やサービス業も盛んな大都市だったのでは。館内に芦屋の茶釜についての説明がある。その写真が下。



  他にも各種の茶釜や、同じ技術で作られた鐘などもある。その鐘はたしか、衝いてよかったと思う。入館時に、抹茶と茶菓子のサービス券を買うと、一通り見学した後に、園内の花や水琴窟(すいきんくつ)を見ながら一服できる。掌で茶碗の温かみを感じながら持っていると、抹茶のいい香りが胸から顔に上がってくる(下の写真)。あー、日本に住んでいてよかったなー、などと思う。芦屋についての続きは次号で。



  ところで、外出を自粛していたこの半年間、これまで訪れた場所とその記録や写真を思い返しながら、ふと思った。「なぜ江戸時代には、庄屋や大商人などの個人が新田開発や灯台建設などのインフラ建設をしたのだろうか、また、できたのだろうか」。

  インフラ(道路、港、鉄道、空港などの経済の基礎的基盤。ハードとしてのそれらと、教育、司法、警察、会計など諸制度というソフト面のインフラもある)の建設・整備は、今では国や自治体の仕事。民間がかかわるとしても、公的部門と共同でやるケースがほとんど。民間人がしかも個人で、私財を投げうってそんなことをした話が、江戸時代については全国でも多々残っているのではないかいな。

  逆にいうと、今よりも貧富の差が激しくて、大庄屋となると大変な金持ちだったからできたのだろうか。それとも、庄屋さんは地元の人たちをいつも面倒みていて、「これこれを皆でやろう」と声をかけると、多くの人が資金を出し合って協力する体制があったのだろうか。それとも、地域創生とか社会貢献の意識が、現代人よりも高かったのだろうか。

  今後はいろいろな場所を訪れたときは、そうした名もなき地域の人々が、地域貢献に尽力した話を集めたいと思っている。真似できる資力も才覚もないけど、姿勢だけでも少しは見習いたいものだ。

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マリンテラスあしや(芦屋)(2020年3月)(各写真はクリックで拡大します。)

  長年北九州市に住んでいるけど、芦屋には行ったことがなかった。海岸沿いを通って宗像に行くときも、遠賀川(おんががわ)から北に走りつつも、芦屋に入らずに途中で左折してしまっていた。

  最近、海水浴場や芦屋釜(あしやがま)の里などがあると知った。今回は天候がよくなくて写真をあまり撮らなかったので、国民宿舎のマリンテラスあしやだけの情報。

  福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1588にある。入口の看板の写真が下。



  入口に向かって右側に、モニュメントがある。なんと、そのモニュメントは、Maejunの親戚のある男性が造ったものなのだ。





  海と波をイメージしたものだ。美しい曲線にしならせるのが、なかなか難しかったらしく、スゴ技を持つ職人さんが中心になって取り組んでくれたそうな。

  マリンテラス芦屋のすぐ向こうは、海。宿泊すると、絶景を楽しみつつ、名物のイカ料理を堪能できるのだ。その海の写真が下。



  雨天だったので、ちと栄えない写真。次回は、他のところの写真も撮ってくる予定。

  ちなみに、芦屋釜は茶の湯釜としては垂涎(すいぜん)の的だったらしく、国指定の重要文化財としての茶釜は、ほとんどが芦屋釜らしい。

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猿喰新田(さるはみしんでん)(2020年3月)(各写真はクリックで拡大します。)

  今回も郷土史の庄屋さんの話。江戸時代の小倉藩・門司で、ある庄屋さんが、私財を投げうって干拓事業をしたそうな。その人の名は、石原 宗祐(いしはら そうゆう)。私財を投げ打ったどころか、最後には借金まで残ってしまったそうな。

  飢饉や貧窮にあえぐ人々を救うために、海を農地に変える公共事業をやったのだ。北九州市門司区の猿喰というところ。住所は、福岡県北九州市門司区大字猿喰1018、1019、1462-5、1501など。

  わかりやすくいえば、福岡県立門司学園高校のすぐ隣り。その高校の角あたりに、石原 宗祐の石碑がある。下の写真がそれ。

  ポケモンGoのジムになっている。周りに民家はほとんどない。「ってことは、このジムにバトルをしかけて勝利し、自分のポケモンを配置したら、しばらくは破られずに君臨できるのでは?」などと舌なめずり。

  幸いにもそのジムのポケモンはパワーが低下しているようなので、バトル開始。すぐに制覇して我がカビゴンを配置したのだ。

  いきなりこんなことをして石原さんごめんなさい、とやや後ろめたい気もしつつ観光開始。海だったところを干拓して農地にしたということで、塩(汐)をどうやって土地から抜いていくのかって工夫にとても感心した。次の写真がその説明。

  上の方が干拓によってできた新しい田。下の方が海。新田が少し高くなっていて、水路を通った水が海に流れるようになっている。そして、塩(汐)を抜く工夫をもっと詳しく説明したのが、次の図。

  ちょっとわかりにくいけど、図の下部・真ん中あたりに、板のようなものがある。これが新田と海を隔てるバルブのような役割を果たしていたのだ。

  そして、左側の海の潮が満ちてくると、その板は海水に押されてピタッと蓋になって海水が田に登らないように閉じる。そして、干潮になって海水が低下すると、田の方から降りてくる水が板を押し開けて排水する。

  これを繰り返せば、海から塩が田に沁み込まず、田からは塩が水に溶けて抜けていくということなのだろう。

  言われてみれば単純な発想だが、高低差と潮の満ち引きという自然の力を利用したグッドアイデア。

  先ほどの石碑から、その汐抜きの穴に行く人のための標識が次。

  その道は、車がやっと一台通れる幅しかないなので、離合に気をつけましょう。その道の写真が次。なんか情緒のあるカーブだ。なぜか東山 魁夷(ひがしやま かいい)さんの道の絵を思い出した。


  せっかく配置した我がカビゴン、バトル攻撃を受けて敗退し、夕方に戻ってきた。うむむ。

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白洲灯台(しらすとうだい)(2020年3月)(各写真はクリックで拡大します。)

  1月のMonthlyで紹介した郷土史の本、小野 剛史(おの たけし)『小倉藩の逆襲 豊前国歴史奇譚』花乱社(2019年)の最終章で、下で説明した清虚さんの話が紹介されている。

  さらに、響灘(ひびきなだ)に浮かぶ藍島(あいのしま)沖の小島に灯籠台を立てた岩松 助左衛門、部埼(へさき)灯台の設計をしたイギリス人技師のブラントンのことなどが、詳しく説明されている。

  同書によると、その白洲灯台の復元物が小倉北区の小倉城境内の中にあるという。知らなかった。小倉城を久しぶりに訪ねてみた。

  お城に向かって立つと、ちょうど背中側の端の方に白洲灯台があった。それが、この写真。

  岩松翁の設計による灯台を模したもの、という説明書きがあった。当初はおおよそこんな外観の灯台だったのだろう。瓦屋根までついていて、頑丈な小屋といった雰囲気。岩場に立っていたのだろう。

  現在は、次の写真のような外観らしい。

  説明書きも載せておきましょう。



  白洲灯台がある場所は下の地図のとおり。

  小野(2019)を少し引用してみよう。「清虚と岩松 助左衛門。航海安全のために尽力した二人に共通するのは、何といっても人間愛であり、無私の精神です」(同上書、224頁)。

  江戸時代には、庄屋さんが新田開発とか灯台建設とか治水などの公共事業をやったという話がちょくちょくある。現代では国や自治体がやっている事業に、個人が私財を投じて参加するなんてすごい。

  貧富の差が激しくて庄屋さんはなかなかリッチだったのだろうか。それとも、庄屋さんは人々にお願いして回って、募金活動や借入れ活動ができる立場にあったということなのだろうか。

  海の難所に灯台ができ、自分の船の位置がわかるようになって、どれだけ人々は助かったことだろう。替え歌にするとこんな感じかいな。

響灘(ひびきなだ)に 船乗りせんと 月待てば 灯台明るし 今は漕ぎいでな
(百人一首の「熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」より。)

  今回、白洲灯台を見にいって、そんなことを感じた。単なる物見遊山は退屈に感じるが、人の立派な生き方の足跡が味わえる、そんな歴史サイトに行くのは好きだ。爪の垢でも煎じて飲もうかな、という気持ちになるものだ。

  ちなみに、小倉城は小さめだけど、なかなか美しくて立派な城。天守閣が今もあるのは、九州では熊本城と小倉城ぐらい。

  今の小倉城は昭和になって再建されたもの。江戸時代のものは、幕末の長州藩との戦で焼失した(小倉側が田川方面に退却する際に、自ら焼いた)のだ。青空をバックにきれいな写真が撮れたので、次に掲載。



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部埼灯台(へさきとうだい)(2020年2月)(各写真はクリックで拡大します。)

  部埼灯台は、「福岡県北九州市門司区大字白野江(しらのえ) 部埼灯台」で検索すると、ナビに出る。少しややこしいところにあるので、ナビを使うことをお勧めする。

  ナビの案内は灯台の少し手前で終了するようなので、それからさらに進めば、白亜の像が見えてくる。

  僧侶の清虚(せいきょ)さんの像。10メートルぐらいの高さだろうか。波打ち際に立っている。正面から撮影するためには海に入らないといけないので、この横顔の写真が限界。

  19世紀の中ごろの人のようだ。海難防止のため、この地で13年間火を焚(た)き続けたそうな。「日中托鉢(たくはつ)で得た糧を焚料の買い入れにあて、一日一食の生活を続け、七十四才で世を去るまでの十三年間、雨の日も風の日も読経とともに火を焚き続けました」と下の写真の説明にある。ちなみに、焚の音読みは「ふん」。


  自分以外の何かのために、献身しつづけた人生。日本の歴史を変えたといった取組みではないかもしれないけど、やはり一つの偉業だと思う。

  復元された火焚場が下の写真。清虚さん一人の托鉢によって得た食料と交換した薪では、たいした火にはならなかったかも。または薪を自ら伐採したり、別途もらっていたりしたのだろうか。いずれにしても、今と比較すると細々とした灯台であっても、その目的としての利他は素晴らしい。

  その場所は、今は灯台になっている。明治5年のものだそうだ。写真のとおり、白亜の美しい建物。補修は何度もされただろうけど、明治に作られたときの風情が残されているそうな。

  この灯台の由来が下の写真。イギリスの技師のブラントンという人の設計らしい。普通、灯台は自治体とか国が建設・運営するものだ。狭い海峡で通行税を取れるなら民間人・民間企業でも運営可能だけど、なかなかそうはいかない。つまり、フリーライダーがいる以上、民間でやっても費用を回収できないのだ。

  じゃあ、なぜ国や自治体がやるかというと、交易の発展が国全体としてプラスなのだから、税金という形で費用を回収して、それで建設・運営しようということなのだろう。

  一個人では通常は不可能な灯台を一日一食でやり続けた清虚さん、すごい人だと思う。

  この灯台は、観光する人も少ないようで、ひっそりしている。ご婦人はくれぐれも防犯に気をつけて、複数の人で訪れた方がいいでしょう。

  灯台周辺は、今はそんなに民家もないけど、江戸時代はどうだったのでしょう。漁師村だったのか、または、航行する人々が寄港して宿泊・飲食するような施設でもあったのだろうか。今よりも人口は多かったのかもしれない。

  灯台から少し戻ると、清虚さんの墓に通じる目立たない看板があった。車ではとても入れない狭いところなので、スルーした。

  もう少し戻ると神社がある。皇産霊(みむすび)神社、というところ。その写真が下。こじんまりして、かわいい神社。

  神社の中には、河童の像があり、子連れの家族が楽しんでいた。河童の像に向かって、小学生ぐらいの男子が合掌して、「◎◎ちゃんと仲良くできますように」などと祈願していた。かわいい。

  境内に和歌がたくさん掲示されていた。下の写真のとおり。

  その中で、おもしろかった庸軒さんの一首。

人老いて 翁(おきな)となりて 神となる まことめでたし 白髪なでつつ (庸軒)

  話戻って、僧の清虚さんの功績をたたえて、Maejunが一首。

白野江に うちいでてみれば 白妙の 僧清虚さん 灯(ひ)を掲(かか)げつつ (Maejun)
(百人一首の「田子の浦に うち出(い)でてみれば 白妙(しろたへ)の 富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ」より。)

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香春(かわら)岳(2020年1月)(各写真はクリックで拡大します。)


  上の写真は、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と三連山みたいになっている香春岳のうち、二ノ岳。JRの香春駅の改札を出ると、すぐに見渡せる。二ノ岳を最初に紹介した理由は、一ノ岳が銅や石灰岩などの採掘によって崩壊していて、冒頭を飾るのは気が引けたから。一ノ岳の写真が次。ああ、無惨。


  三ノ岳は二ノ岳の奥にある感じで、ちょっと写真は撮りづらかった。ちなみに、一ノ岳とか二ノ岳とかは、当管理人が地図などを参考にして、多分こうかなと推測して説明している。

  この香春岳について、小野 剛史(おの たけし)『小倉藩の逆襲 豊前国歴史奇譚』花乱社(2019年)は、詳しく紹介している。以下、その内容を引用しつつ説明する。

  天正14(1586)年、豊臣 秀吉は「黒田 官兵衛を軍奉行に任じ、すでに秀吉の軍門に下っていた毛利 輝元、吉川 元春(きっかわ もとはる)、小早川 隆景の毛利勢に豊前への出陣を命じました。・・・・・・黒田 官兵衛と毛利勢は10月3日海を渡り、翌日、2万5千の軍勢で小倉城を囲みました。

小倉城は、香春岳城に拠る高橋元種の支城で、城代の小幡 玄蕃(おばた げんば)が守っていましたが、自刃し、城兵は香春岳方面に逃げ去りました」(小野 剛史、2019、34頁。なお、当管理人が、漢数字をアラビア数字にするとともに、適宜、よみがなを括弧書きで追記している。また、ネットでの読みやすさに配慮して、当管理人が適宜、改行を入れている―以下、同様)。

  小倉と香春に、昔こんな関係があったとは、ちーとも知らなんだ。郷土史っておもしろい。ちなみに、この頃の小倉城は、細川や小笠原が封じられる前のものだ。そして、香春岳城がどうなったかというと、「毛利軍は・・・・・・、高橋 元種が守る香春岳城への攻撃を開始しました。元種は20日間にわたって抵抗をつづけましたが、12月11日、総攻撃を受けて降伏しました」(小野 剛史、同上、35頁)。


  引用させていただいた本は、上の写真。宮本武蔵も坂本龍馬も出てくる、わくわくするような本なのだ。超おすすめ。

  その高橋元種の少し前の話と思われるが、下にリンクを貼っている『まるごと香春』には、次のような話が載っている。

「戦国時代、香春岳には難攻不落の『鬼ケ城』がありました。城主は原田 義種で、清瀬という美しい姫がおりました。鬼ケ城はある時、大友宗麟に攻められ、義種は清瀬姫を人質として差し出しました。

  しかし、清瀬姫の故郷を思う気持ちは強く、香春に逃げ帰りました。宗麟は怒り、直ちに大軍をもって香春を攻め、城の水路を断ちました。こうして鬼ケ城は落城し、戦いと混乱の中で清瀬姫は千寿丸という幼子を抱いて古井戸に身を投じたそうです」(『まるごと香春』7頁。2020年1月13日閲覧)。

  この鬼ケ城とは、おそらく一ノ岳のこと(諸説あるかも)。山城に籠って抵抗するからには、水と食料の備蓄・補給が欠かせない。とくに、水は不可欠だから、どこかに貯水して隠していたのか、それとも、山とはいえコンコンと流れ出る水源があったのか。

  その場所は秘中の秘だったはず。それを見つけようと地元の人々を脅したり利で誘って聞き出そうとする大友勢、それに対して必死に口を閉ざす人々―そんな空想を駆り立てられた。


  JR香春駅は、とてもかわいらいし構えで、レトロな情緒が溢れている。


  上の写真は、JR香春駅のホームから写した線路。ちなみに、香春駅は無人駅で、交通系ICカードの読取り端末もない。小倉駅などから乗るときは、ICカードタッチで入るのではなく、事前に切符を必ず買っておこう。

  香春駅の構内に、地元の『香春万葉の会』の人の短歌が紹介されていた。その中で心に響いた二首を紹介。

住職の 一周忌終えし 西の空 二月の月の見えはじめたり (奥村 秀子)

熟睡の 夫のめざめを 待ちしけさ 思わぬせみの はつなきを聴く (杉山 登代子)

  香春の地図・観光案内のチラシのリンクはここをクリック。PDFファイルなのだ(香春駅に置いてあったもの。A3サイズをA4に切ってスキャンしている箇所もあり、つながりが悪い場合はご容赦を)。

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平尾台(2019年8月)(各写真はクリックで拡大します。)


  上の写真は、「自然の郷」の正面入口。


  この写真は、「自然の郷」から写した山々。 雨が上がったときに撮影。曇りだったので写真の色が悪いけど、わりと蒼々(あおあお)としていた。 雨が直前まで降っていたからか、セミやつくつく法師や鳥の声が聞こえず、あたり一面、静まりかえっていた。

  上は「自然の郷」の奥の少し高いところにある展望台。晴れた日は眺めがいいのだろう。

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英彦山(2019年7月)(各写真はクリックで拡大します。)

  英彦山(ひこさん)に行ってきた。まずは、道の駅「歓遊舎 ひこさん」(下の写真)。英彦山そのものからは 少し離れている。


  なんと、JRの駅が乗り入れている。道の駅とJRの駅が両方あるのは、なかなか珍しいのでは(下の写真)。


  そして、道の駅すぐ隣の稲穂の様子。


  ちなみに、道の駅でもらった地図が、以下の4枚。本当はA3で1枚の両面印刷だけど、A4のスキャナーで読み込んだからこうなった。 1枚目と2枚目が左右で続き、3枚目と4枚目が左右で続き。
  道の駅を出てすぐ右折、地図をたよりに英彦山神社に向かった。道の駅でゲットした地図ではわりとすぐに左折のようで、実際はかなりの距離を走る。10分ぐらいしてやっと左折。








  英彦山の頂上(中岳。上宮、つまり御本社)まではたしか車両ではいけない。スロープカーなるモノレールがあり、一番下の銅の鳥居から途中の奉幣殿(国の重要文化財) まで、幸駅、花駅、神駅の順に運んでくれる。今回は、花駅近くの駐車場にオートバイを停めて、スロープカーに乗って神駅で下車。
  奉幣殿に行くには、石段を登らないといけない。かなり勾配が急。その石段の途中に、杉田久女の句碑があった。

  谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま
という句らしい。ほととぎすが、鳴きながら自在に飛び回っている様子が目に浮かぶ。

  次の写真は、奉幣殿正面の写真。


  次の写真(下)は、奉幣殿にあった龍の吐水。龍は水の神様ということらしい。上宮まで徒歩で登るのは、真夏には過酷。あきらめたのだ。


  その後、花駅にスロープカーで戻る。花駅は昔、英彦山小学校だったそうな。校舎をそのまま利用している感じで、レトロな風情があった。 小学校があったということは、家も多かったのだろう。昔は英彦山にお参りする人も多くて、門前市をなす盛況だったのだろう。

  帰りは、英彦山から赤村に抜ける道を走る。途中の油木(あぶらき)ダム西側の庚申(こうしん)大神の碑とお地蔵さんの写真が下。 道中の安全祈願の猿田彦信仰から来たのか、昔ここで何か事故か事件があって供養しているのか。なんか情緒があった。


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新原・奴山古墳(2019年6月)(各写真はクリックで拡大します。)

  世界遺産の新原・奴山(しんばる・ぬやま)古墳群に行ってきた。最初は、津屋崎、宗像(むなかた)の海岸沿いに走る。 下の写真は、その途中のさつき松原の松林と海の風景。




  そこから新原・奴山古墳群を探すものの、どこにあるかわからない。「ここから左折」みたいな案内板はあったが、そこからの詳細な案内がない。

  うろうろ走り回ること20分ぐらいでようやく到着。それゃ、わかりにくいはずだ。ただただ、こんもりとした小山か丘のようなものが、点々とあるのみ。ようやく、一基の 前方後円墳の写真を撮れた(下の写真)。右側の平たくなっているところが、「前方」の部分。


  円墳と違い、前方後円墳は大和政権の関係者が埋葬されるときに多用されていたらしい。前方後円墳がかなりの数ある。この地域と大和政権の深い 結びつきを感じさせられた。宗像氏一族は、海洋民族として、朝鮮半島・中国との交易だけでなく、海軍としての役割も果たしていたのかもしれない。

  大和政権が、その祭祀を長く沖ノ島でやっていた(らしい)ということからしても、同盟ないし主従の関係があったのだろう。

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